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 障がい者福祉制度の改善、健常者との公正取引制度の法制化、養護学校や障がい者福祉施設の改善と無駄削減の必要性について。

 福祉と障害者について、述べたい。
 
 福祉の本質は、「お目こぼし」である。
 竹中平蔵教授の表現を借りれば、これは、Like or Dislike の問題ではなく、Fact or False の話である。

 

 このようなことを書くと、それによって、「心理的に傷ついた」と難癖つけてくる、実質は、生理的に虚弱で甘ったれた人間もいるだろうが、
 「真実」は、そうなのである。

 

ーーー
 だから、「福祉」をあまりに美化したり、当然のことの様に言い出す奴らに対しては、「狂信者」か「馬鹿」か「嘘つき」か「ペテン」だ、と思った方がいい。 

 

 別に福祉がダメだと言っているわけではない。
 あくまで、「セーフティー・ネット」「保険」「余裕の範囲」「一定の安心システム」、そして「お目こぼし」だという、それだけの客観的な話である。

 

ーーー
 わかりやすいので、ピアノを例に出す。

 

 先天的か後天か、いずれにせよ、失明する人が、人口の「0.00~00何%」かいる。
 高等生物としての宿命とはいえ、もちろん、気の毒な話である。

 

ーーー
 で、現在の日本なら、そういう人には、福祉手当が出るので、そういう人たちは、一定の金額を国からもらって、衣食住をして生きていける。
 家庭が富裕層だったり、福祉施設が豪華な所の、そういう人は、彼らの日常空間に、ピアノがあったりする。
 家庭の理解や、福祉施設の余剰、福祉手当の量によっては、プロの授業を受けられたりもする。

 

ーーー
 そうすると、日常生活には困らない人が、他にすることも限られるので、好きだったり才能があったりすると、一日24時間、ピアノを弾き続けることを中心に生活できる。
 そういう人たちの中で、とりわけ才能があったり特別に好きな人が、結果を出して、大きなコンクールで表彰されたり、市場で一定に売れるCD曲を演奏したりする。

 

ーーー
 ところが一方で、健常者で音大を出た人は、若い頃から、大手コンクールで表彰されて、専任で食べていける人は、ほんの一部の天才、極度の秀才のみである。
 で、その他の人たちはどうしているかというと、よくて子供相手の教室収入で生計の何割を確保できるか、という生活をする。または、全く別の、普通の営業・事務の仕事を専任でして、生計を立てたりしている。
 (実際にこういう人たちに、子供時代や雇用で接すると、なおさら実感する。)

 

ーーー
 誰だって、
 A; 目が見えない代わりに、成果を問わずピアノだけ弾いていればいい生活、
 B; 目が見えるが、成果を出して労働をしなければならない生活、

 

 この選択を突きつけられれば、
 そりゃ、Bの方を選ぶに決まっている。

 

ーーー
 しかし、当たり前のことだが、ライオンであれ鹿であれ、人間以外の生物は、この選択肢は、選択枝自体が、あり得ないのである。
 すなわち、A=死亡 ・B=生存、の、この回路しかあり得ず、それが本質の自然淘汰、なのである。
 
 人間が,生態系の勝者であるからこそ、それも人間社会に余裕がある場合にのみ、Aの生存が、「お目こぼし」で許されるのである。

 

ーーー
 平安時代からでさえ、按摩で働ける人・琵琶を弾ける人は、目が見えなくとも、生存が許されてきた。
 しかし、逆に言えば、按摩もできず、琵琶も弾けない、すなわち他人への十分な利他的労働が出来ない人は、その当時でも、淘汰されてきていた、ということである。
 (具体的には、その特徴がわかるなら、赤ん坊や幼少の頃からでも、街でか山でか知らないが、埋められたり捨てられたりしてきたのだろう。)

 

ーーー
 まず、人間個人個人には、それぞれの「立場」というものがある。 
 これが、自然科学言語だと「生理的本能」であり、社会科学的な言語だと、「個人の自由」である。

 

 その上で、他者と関わる場合、「逆の立場」だったら、どうであろうか、ということを考える知能があるのが、知的に健常者の人間である。
 これは、自然科学言語だと「知能」であり、社会科学的な言語だと、「社会性」である。

 

ーーー
 そしてこれは、構造的に、「生理本能」が地盤・幹であり、「知能」は建築物・枝葉、なのである。
 すなわち、「生理本能」の基礎をおろそかにすると、「知能」は、「空手形」「詐欺」「虚構」「非現実のファンタジー」になりうる、ということだ。

 

ーーー
 何が言いたいかというと、
 要するに自分自身が、先天や後天で目が見えなくなった時、どうなるか、想像してみるとわかる。
 もし自身が自然界のライオンや鹿だったら、もし百獣の王のライオンや象であったとしても、そう遠くない「死亡」が、将来に待ち構えている。

 

 ところが、自身は、生態系を支配し、種内社会に比較的余裕がある人間に属するので、人間集団が高い知能故に持つ「社会性」に頼って甘えて、
 「自分はライオンや鹿ではありません。あんまをします。または琵琶も弾きます。その間は、生きさせて下さい。」と、まあ誰でも涙を流して、狂信者や馬鹿でなければ、本人の「生理本能」から、そう他人に懇願することになる。
 平安時代にも、そういうことが現実に起こったから、按摩や琵琶法師がいたのであろう。

 

 それで、社会の方も、余裕のある時代には、按摩や琵琶のサービス労働をさせることで、その対価としての衣食住の世話を、どの程度か知らないが健常者が彼らにしてやり、彼らを生きさせてきたのだろう。

 

ーーー
 で、これはすなわち、「お目こぼし」や「保険」以外の何者でもないじゃないでしょうか?

 

ーーー
 「自分が盲目になった時、すぐ死ななくていい。按摩か音楽やれば、最低限の面倒は見てもらえる。」
 そのあたりの、保険金の供給がだんだん増えていくと、
 「按摩や音楽やれなくても、最低限の面倒は見てくれる。」
 「最低限どころか、平均並みの面倒も見てくれる。」

 

 行き着く先には、先のピアノの話のように、
 「誰もが忌諱するハンディキャップを「利権」にして、音大出の健常者の人がする利他的労働はしないで、むしろ「特権階級」的に、好きなことや得意なこと「だけ」をやって生活して、元来、先天後天で平均以上の能力の人のみが手にするはずの、「栄光」や「高所得」すら、手に入れられる。」

 

 こういう所まで、失明保険の保険金のお支払いは、「社会性」の無い人間が行うような、無限の「生理的本能」の欲望の限り、増長していくのです。

 

ーーー
 しかし、現実的には、この失明保険の保険金のお支払いは、上記のようには、無限に増長できません。

 

 それは、当然、保険金を受給する被災者に対し、保険金をお支払いする人たち、すなわち健常者の人たちの「生理的本能」、および、健常者社会や人間社会全体の「社会性」と、バッティングするからなのです。

 

 すなわち、保険とは、被災に遭わない人たちが、何1,000~,000分の1の確率で起こる、自身が被災した時の給付金を、お支払いし、支えている制度だからです。

 

ーーー
 柔道には、敗者復活戦があります。
 柔道という競技には、おそらくある程度の偶発リスクが、実力と平行して出る可能性が、一定にあるのでしょう。

 

 だから、不運・偶然・うっかりの痛恨のミスで1敗した実力者に対し、銅メダルまでの再チャレンジの道は、残してあります。

 

 それは、一度のミスで1敗しても、銅までなら試合や上昇チャレンジを続けられるという、安心や保険を、柔道選手に与えています。

 

ーーー
 一方で、もしこれが金メダルまで敗者復活があったら、どうでしょうか?

 

 ものすごい緊張感に打ち勝ち、一点の大きなミスもせず、フィギアでいえばトリノのプルシェンコやソルトレークのヤヴディンのように、「完璧に」やってきた人が、

 

 決勝で、一度とはいえミスをした人に、やはり何かが足りなかった人に、なぜ対等に、金メダルをかけて同じ条件で戦わなければならないのでしょうか?

 

 それでそれまで無敗の完璧な人が銀で、一度下位でミスをした人が金だったら、これは「公正」なのでしょうか?
 完璧を期さず、ある意味「ずる」をして金を得た人が、本当の「金」メダリスト、No.1でしょうか?

 

ーーー
 何事も、行き過ぎは良くないと思います。
 自身が「逆の立場」、盲目になったときのことを想像すると、「自然に死ね。」とは、盲目の障害者に安易に言えない事情が、健常者にもある。

 

 盲目になったのが、もし犯罪や人的ミスや社会的問題が原因であった場合、その責任を、原因となった人物や事象に、どう追求するか、ということは、人間関係を扱う法務省的に、別にあります。

 

 しかし、自然状態で先天や後天で盲目になったり、または一部の他人要因でそうなったりしても、どこまで一般の「赤の他人」の健常者に甘えていいか、後始末や尻ぬぐいをさせていいか、これは非常にシビアだが、FACTとして、避けて通れない問題です。

 

ーーー
 音大出の健常者で、天才や極度の秀才でない若者が、ベートーベンの若手時代の様に、音楽に本質的に興味がなく見栄や虚栄で子供への授業を買いたがる富裕層に、必死に頭下げて営業して、どこまでそれを必要としているかわからないガキ相手になだめすかして教えて、生計を立てている。
 そういうピアノ教室世界ですら、競争があるので、まったくピアノと関係ない雇用で生計を立てている音大出の人たちもいる。

 

 そういう現実がある中で、そういう音大出の健常者たちが「お支払いした」税金で生活させてもらっている障害者たちは、
 まったくピアノをやってはいけないとは言えないが、少なくとも、そういう「お目こぼし」条件の中磨いた腕で、大手コンクールに参加したり、CD販売をしてはいけないのではないか?

 

 大器晩成を夢見て、成果の求められる社会労働をして働いて、いずれは大手コンクール、CD販売を目指している健常者に対し、「失礼」「加害」「妨害」「迷惑」「損害」「公正取引法違反」なのではないか?

 

ーーー
 私は、視覚障害者が、個人としてピアノを弾いていけないと言っているのではない。
「逆の立場」を想像すれば、それはあまりにも酷な話である。

 

 もっとも、健常者でも、家にピアノを買える人がどれだけいるか、学校であれ公民館であれ、家の外で日常的にピアノにアクセスできる程度や時間が週にどれだけあるか、私的にピアノ教室にいくらお金を払わなければならないか、これを考えると、

 

 別に養護学校にピアノを設置する自体は、ピアノは西洋楽器の王様で基本なので、悪くはないが、製品の質や量は、健常者の生活環境や市場との比率公正を、よくふまえなければならない。

 

ーーー
 たとえば、養護学校や福祉施設なら、廉価な電子ピアノでは、なぜいけないのか?
 中古では、なぜいけないのか?少なくともグランドピアノは不要なのではないか?
 公共に回る余剰中古ピアノは、健常者でも使用できる公共施設に優先すべきでないか?

 

ーーー
 ピアノの才能があったり、好きな障害者は、福祉手当で生活しながら、生活の大半を練習に費やし、それなりの演奏が出来るようになるだろう。

 

 しかしその腕は、福祉手当に依存した以上、個人として自身や家族で楽しむだけに使ったり、養護学校や福祉施設内で、または健常者枠の何分の一かの障害者枠を設けた上での、小中学校・老人ホーム相手だけで、使うべきなのではないだろうか?

 

 生きた証としてCDを作ってはいけないとは言えないが、身内で楽しむ程度、よほどできがよければ、在住の自治体図書館に寄付する程度で、市場に流通させては、いけないのではないか?

 

ーーー
 柔道の敗者復活と同じで、生産するに当たり、健常者と与えられた条件が同じでないのだから、

 

 養護学校や社会福祉法人が、市場でお金を儲けて商業にしてはいけないのではないか?

 

 (しかも柔道の敗者復活と勝ち組の差は、たった1敗だが、健常者と障害者の生理落差や社会制度の違いは、はるかに大きい。)

 

ーーー
 すなわち、コンサートやCD販売で、厳しい市場競争を戦っている健常者のピアニスト達に、福祉受給の障害者が「営業妨害」をしては、絶対にならないのではないか?

 

 何か法制化して、商業行為は全面禁止するか、百歩譲って、たとえばコンサートは第1・3月曜日のみとか、(水や金や土日祝日は含ませない。)、流通販売を障害者居住の自治体内に限定するとか、そうでもしてもらわないと、

 

 一生懸命生計だけで日常を苦労する、音大出の普通の健常者ピアニスト達は、とてもおさまらないのではないか?

 

ーーー
 また、CDに限らないが、税金支出である福祉制度の手当を受けた法人なり個人が、生産した物には、
 食べ物であれ、無機物であれ、「税金の恩恵を受けた製品であること」は絶対に明記し、トレーサビリティさせる必要があるのではないか?

 

 すなわち、一般の純民間流通商品とは、「差別化して」扱う必要があるのではないか?
 (ここでの差別という言語は、宗教・観念の用語ではなく、FACTとしての「商品差別化」の意味での経済用語として、ここでは使用している。こういうことにつっかかってくる狂信者や馬鹿もたまにいるので。)

 

ーーー
 また、学校の正課の音楽の先生より上の音楽指導者や授業は、公共での養護学校や障害福祉施設には、不要なのではないだろうか?
 (これは、健常者の学校や児童福祉施設も同じだが。)

 

ーーー
 もちろん、予算としては、外務省系統や文科省系統などのわかりやすい無駄を、真っ先に削るのは当然である。

 

 しかし、社会保障予算、国ももちろんだし、自治体ではこちらのほうが大半になるが、これも、絶対的な宗教「聖域」ではない。
 基本的な部分では、年金も福祉手当も国民の生死に直接関わるから、協力隊や学振PD等などのぜいたく品制度に比べれば、たしかに慎重に精査しなければならない部分が多い。

 

 それでも、これからの時代、無駄・過剰・ぜいたく・甘やかしの部分は、当然省いていかなければならない。

 

ーーー 
 障害者は絶対数が少数なので、担当専門職でないとそう多く日常的に接することはないが、
 それでも、「お目こぼし」を受けているという「謙虚さ」が本当にあるのか、自覚しているのか、疑わざるを得ない障害者に出逢うことも、ままある。

 

 時には、「お目こぼし」を担当施行しているはずの担当専門職にも、なにかすごい絶対にいいこと、神聖できれいな使命を果たしていると思い込んでいるような言動の人に、出逢うことも、たまにある。

 

ーーー
 更に、これが知的障害者や、その症状が見られる人物になると、もう「謙虚」という言葉の意味がわからず、こちらが社会常識や礼儀で一歩引く・譲ると、何を勘違いしたのか、すぐその分がつけ込んで自己主張してくる・乗ってくる、そういう障害者やボーダーライン者の事例も、たまにだが、ある。

 

 普通こちらが1歩ひく・譲ると、相手がまともな健常者なら、相手も、1歩引く・譲る。

 

ーーー
 力や知恵がある健常の人間同士が、お互いに自己主張し続けるとどうなるか、普通はガキの頃から、痛い目にあったり損害を受けて、覚えるものである。

 

 タイミングでたまたま一方的にケンカに勝つことがあっても、だいたい後で同程度に仕返しされる。
 (相手が馬鹿や狂信者だと、仕返しが釣り合ったところで止めず、倍返しにしてきたり、釣り合ったらまた損害を与え始めたりするので、第3者が介入しないと、いつまでも終わらなくなる。)

 

 知能があれば、それを覚えるので、自己主張をコントロールして、基本的な自衛や、公平な第3者も納得する程度の仕返し以外は、不要にやらなくなる。

 

ーーー
 引いたり譲ったりの謙虚ができない奴は、よほど有能だが強欲な人間の場合もまれにはあるが、だいたい、無能で欲望をコントロールできない人間、すなわち知能が低い人間である。
 そういう奴に限って、相手が一歩譲るものだから、何か勘違いして、自分は偉いんじゃないか、強いんじゃないか、がんがん押して主張していいのだ、とつけ上がって、健常者や他の障害者も含む他人全般に、損害を与える。

 

ーーー
 強欲な人間には、昔極端に過剰に他者に禁欲を強制されて反動でなる奴と、甘やかされてつけ上がってなる奴と、両タイプあるようだ。

 

 養護学校や障害福祉施設も、これは元来私の専門外だが、きちんと障害者を、児童の時から甘やかさずに、「社会性」をしつける必要がある。

 

 「かわいそうだ。」の良質母性だけでは、秩序が収まらないから、世の中法務省も警察もあるのである。
 法務省警察ときちんと連携して、養護学校や障害福祉施設に、個別でもハブでも、一定数の刑務官を配置し、留置所も作る必要がある。

 

 一方で、障害者が何かおかしなことを狂信して、他人に対し、過剰で不要な、実質本人の趣味でしかない「社会性もどき」を強要して損害をかけないために、
 養護学校や障害福祉施設の職員自体も、障害者に対する、まちがった虐待や不要な部分での洗脳をしないよう、改善注意しなければならないのではないか、と思う。

 

ーーー
 「逆の立場になったときのこと」を考えると、
 例えば交通事故で足を失うリスクは、誰でも一定に持っているのだから、車イスの障害者に対し、むげに「負担になるから、自然淘汰でそのまま死ね。」とは言えない。

 

 ちょっと公共図書館・役所・主要駅を補修して通路を広げて、車イスの人が、自力で利用できるようにする、この程度の投資負担なら、ある意味、障害者の行動の自立が増えて、健常者の援助介護の負担が減るのだから、投資と効果が見合えば、積極的に行われる。どの健常者も、あまり文句を言わない。

 

 しかし、それが稲毛の浜の通路拡張ぐらいまで拡大すると、まあレク遊びとはいえ、稲毛は千葉の湾岸一の有名地だからと、「お目こぼしの中のお目こぼし」になりうるだろう。しかし、検見川浜にも必要か、となると、費用対効果で本当に必要なのか、となる可能性がある。

 

ーーー
 また、北海道や東北北信越以外の人が、車イススキーをする必要があるのかというと、手作業で出来る仕事を何かして、私費でやって下さい。税金を使ってやらないで下さい。健常者からすれば、そうなる。

 

 降雪地域の人たちも、生計の手当でなく、所詮遊びなのだから、私費でやってください、となる。

 

ーーー、
 公費では、パラリンピックなんか行く必要ないのではないか?

 

 ニコルソンの時代から、外交は、はっきり申し上げて、貴族、すなわちエリートがやる物である。貴族の定義が、一番上の皇室を除けば、今は世襲でなく、知力の最高峰の国1試験になっただけである。

 

 今後は、独立行政法人職員や自治体職員に、海外出張や勤務をさせてはいけないのと同じく、体力の非エリートは、地方出張で満足させなければ、ならない。
 

 

 パラリンピックには、私費で工面できる人だけ、行けばいいのではないか?
(真のアスリートほど、柔道の敗者復活の銅上限の意味は、わかるであろう。)

 

ーーー
 国体でも、障害者の経済生産能力を考えれば、障害者の全国大会は、贅沢ではないか?せいぜい、毎年の県大会、数年に1度の関東大会・東北大会などの、道州大会で、充分なのではないか?

 

 そんな無駄金や贅沢をしていて、アジアの新興国に商戦で押されている日本が、砲艦外交の植民地収奪もこれからの時代はよう出来ないのに、
 将来、基本的な高齢年金や、健常者の不況生活保護や、挙げ句の果てには、彼ら障害者自身の生活保護を、払えるのか?

 

ーーー
 国会議員の方々様は、非常に難しい問題だとは思いますが、社会保障予算にも仕分けのメスを入れ、無駄や非効率・不公正な国税浪費の腫瘍は取り除いて下さりますよう、よろしくお願い申し上げます。

 

 特に障害者福祉制度の改善を、養護学校から大人の福祉施設まで徹底して下さりますよう、よろしくお願い申し上げます。

 

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