2019年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

«  「ある時点を定めた、一人っ子政策」の導入検討の必要性について | トップページ |  独法行革に関する、所轄省庁の副大臣・政務官の責任の取らせ方について。 »

 初等中等教育における、文科省の、法務省厚労省との連携と、制度改革の必要性について。

 義務教育は、教科として、国語算数理科社会・体育芸音・技術家庭。

その他、赤の他人同士での平日9時5時での集団行動・一部の掃除炊事。

 

 初等中等教育は、高等教育と違い、自分は客観的に詳しく調べていないので、現時点ではうまく分析できない。

 ただ、上記のような現行の初等中等教育で、個々人が社会で生きていくのに、各家庭で差異がありすぎる家庭教育と併せた運営で十分かというと、私は十分ではないと思う。

 学校教育に、不足分もあるだろうし、昨今の事業仕分けのように過剰な無駄分も、もしかしたらあるかもしれない。

ーーー

 学校教育における無駄な過剰分は、民主党や事業仕分け人が、組織的にやるべきだし、やるだろうから、自分個人でいちいち分析しない。

 (政府も民主党も仕分け人も構想日本も、自分を雇っているわけでないので、自分が無料で教えてやる筋合いでもない。)

ーーー

 しかし、学校教育における不足分は、やはり本質的には、文科省が、本体が明治以来の文部省という、比較的新しい組織である点にあると思う。

 それまでは、教育など、各階級内で、それも公家や武家など余裕のある支配層でのみ、主に行われてきたものだ。

 今、西洋史を詳しく調べるつもりはないが、西洋とて、数世紀の先行タイムラグがある程度で、日本と同じだと思う。

ーーー

 しかし明治維新の際に、

 いきなり、国民国家として、国民をひとつにまとめあげる統一した教育システムを施行するには、神としての絶対天皇制に束ねられた、一神教的な宗教教育が、必要だったのだろう。

 戦後に、制度が進駐軍によりがらりと変わっても、人々の意識が変わるのには時間がかかる。

 それで戦後しばらくも、絶対天皇の宗教教育の部分だけは破棄されたが、一方で、教員は目上で神聖で従うべきだ、と言うことについては、人々の意識の中、そのままですんできた。

 つまり、秩序は保たれてきた。

ーーー

 しかし、

 80年代頃には、単純に目に見えやすい暴力運動という形で、最近では、それどころか意識や常識と言った形で、教員がもはや生徒や社会に対し優位を維持できず、ただのサラリーマンとして生徒や社会から扱われるようになった。

 生徒や保護者とうまくやれずに、鬱病で退職リタイアしたり、長期の一時休職する教員が多いらしい。

 それはそれで、公立の場合、人事制度や税金の無駄使い関連でいろいろな問題になる。 

ーーー

 ただ、今日書く本題としては、人事や国税がメインではなく、

 やはり飛鳥時代以来、社会の中で、人間関係を扱う部門として常に存在してきた省庁(名はいろいろ変遷したであろうが)、つまり法務省(や厚労省)の存在、これを活用する必要について、述べたい。

 教育学部と教職課程のカリキュラムだけ見ても、現行制度は、たしかに教科を教える先生を養成できるのは、わかる。

 しかし、学校は所詮学校でしかないし、教育学部のカリキュラム範囲や学校現場の常識だけで、社会が動いているわけでもない。

ーーー

 子供の特徴として、純粋・主に本能で動く・世間知らず・経験不足、がある。

 だから、小さい子供相手ほど、大人は、体力では初めから多く手間がかかるが、知的には扱いやすい。

 しかし10から20までの間は、子供も半分大人になってくる。そして、一方で、体力では、下手に体力の平均以下の大人より、より敏捷で強くもなるので、まず体力的にコントロールが困難になる。

 そこで、子供がまだ半分世間知らず・経験不足なところにつけ込んで、大人は、必死になって、知力を振り絞って子供を「洗脳」「コントロール」しようと試みる。

 教育心理学などのカリキュラムを見ると、それらの洗脳の目的のために、中世キリスト教会の時代以来、いかに学校関係者が苦労してテクニックを積み上げてきたかが、蓄積として記されている。

ーーー

 過剰に行きすぎて一定以上の嘘・詐欺・詭弁にならなければ、心理的テクニック自体は、別に悪いことではない。

 しかし、大きい学校では生徒200~400人に1人くらいの体育教員・生徒40人に1人の知識教員で、威圧と洗脳・経験差だけを武器に、10代前半後半の、半分野獣半分人間の未熟な若者集団をコントロールするのは、今の時代は、かなり無理があるのではないか。

 (尊敬や同意・利害の一致を得ているときはいい。しかし、嫌悪や反対・利害の不一致が起こることは、不特定多数相手の人間関係では、避けられない。)

 (無理なことを無理にでもしようとするから、教員が、生徒に対し、嘘・詐欺・詭弁を過剰に行うことになる。)

ーーー 

 たしかに体罰は、ルールが定まっていないと、たちの悪い教員のストレスのはけ口になる危険性はある。当たり所が悪ければ、障害や後遺症・果ては死亡に至る可能性もある。

 しかし体罰を完全に禁止となると、痛い目に遭わない、とわかった子供達から教員がなめられるのは、当たり前である。

 しかもこれだけ自由社会・ネット社会で情報がオープンだと、ある程度の年齢の子供には、大人社会の情報が、実体験だけ伴わないだけで、全て筒抜けになる。

 援助交際なども現実にあるように、労働法が禁止している社会労働だけ経験しないで、それ以外の大人社会のことはたいてい経験する子供も、出てくる。

ーーー

 鬼教官がげんこつでにらみをきかせ、怖いおばさん教員が鞭を持ち、1神教的な絶対天皇制の宗教教育を、子供達が統制的に受けていた戦前。

 この時代には起こらなかったことが、

 戦後だいぶ世代が経過した近年、もはや意識や感覚の上でも、起こるようになっている。

ーーー

 人権とか科学とかいった時代に、暴力や宗教を使えない、その結果、学校が崩壊している、無秩序化しているなら、学校はどうするべきか?

 やはり、明治からの経験しかない文科省は、飛鳥時代以来、人間関係を扱ってきた法務省やその他の内政省庁に、助けを乞うべきなのではないか?

ーーー

 たしかに小学生には、基礎的な国語社会や算数理科の授業が必要だろう。

 中学生にも、あまり高度なことは教えられないかもしれない。

 高校も、国語社会や数学理科が、少し高度な一般教養になった程度である。

ーーー

 ところが世の中で必要なのは、下手な教養(基礎科学)より、やはり基本的な法律の条文や、社会の制度、その活用方法(応用科学)なのである。

 学校の教科書は、人類はこういうプロセスを経験して、知恵をつけてきた、ということを、後知恵で、少しづつ時系列に理論的に教えていく。(基礎科学)

 しかし本当は、実際の生活で、どういうルールが現実にあって、社会制度が既にどうあって、人間集団の中でどう生きていくか、こちらのほうが、より大切なのである。(応用科学。)

 体系的に時系列に学ぶこと、すなわち基礎科学は、あくまで、「法律の条文が読めないと困るから。」、「お金の量計算ができないと困るから。」、といった現実上の応用問題に対応するために、

 基礎科学の手法の方が、結果的に効率よく読み書きを覚えられる、算数を覚えられる、といった範囲・程度に押さえて、限定して教えるべきだと思う。

ーーー

 基礎科学など延々と、人類の知能進歩の歴史を、重箱の隅までたどって、最新の最先端まで教えていったら、それこそ高校生どころか、大学や院生、挙げ句の果ては学振PDや教員や定年後になっても、まだ学ぶことが可能で、

 はっきり申し上げて「きりがない。」

 (このあたりは国税浪費のテーマとしても、奥深いのだが、今回は違うテーマなので、述べない。)

ーーー

 12歳にもなった中学ぐらいからは、

 やはり国語は、文学作品よりも、法律の条文。

 算数は、理論数学よりも、家計簿や帳簿の付け方、売買の計算。

 社会は、歴史地理は基本だけで、むしろ、政治や経済、模擬裁判、職業訓練。

 理科は、物化生地は基本だけで、衣食住に関わる技術、すなわち、栽培調理加工・裁縫洗濯・掃除修繕。

 これらを教えたほうが、本人達にとっても、よいのではないか。

 はっきり言って、歴史地理など、放課後や大人になっても、本を買えば、読める。(世界史は、私は学校でなく独学で勉強した。)

 物化生地も、放課後や大人以降も、本を買えば読める。どうしても現に実験したければ、学校の理科クラブや、大学の課程生や履修生でやればいい。

ーーー

 また、学校教員のカリキュラムや法制度も替えて、体育教員や一部の優秀教員には、司法警察の権限の一部を、生徒相手に行使できる権限を、学校内のみでの准警察のように、与えてもよいのではないか?

 簡易の留置所も、各学校や、一部の集配局的な大規模学校には、設けてもいいのではないか?

 体罰も、げんこつで頭を殴りつけるような、効果はてきめんだが死傷リスクが高いやり方でなく、

 医師が工夫に参加して、韓国のように尻や脛や手を竹の棒で叩くような、罰としての痛みや損害はしっかり与えるが、死亡や重度の後遺には至りにくい方法を、開発できるのではないか?

ーーー

 親の所得や家庭環境で問題がある児童には、すでに厚労省の機関が存在し、だいぶ関わっている(ソフト面行政)が、こちらも、法務省と同じく、更に学校に介入したほうがよいのではないか?

ーーー

 科学技術庁というのは、文部省以上に新しい役所である。一方で、科学に関することなら、本来は全ての省庁に関係する重要な役所だ。

 これを文部省が取り込んだことで、科学技術に関すれば、どの省庁にも関わりそうな、幅広い事業の大きな予算を、文部省が、取れるようになった。

 そのことが、00年代以降のこんな時代に、国立大など高等教育の教員たちへのバブル経済をもたらし、能力以上に過剰な事業と予算を得た教員達の、大きな腐敗の原因となってきた。そして今も、その構造は変わっていない。これは、何度も別記事で指摘してきた。

(恐らく初等中等教育でも、Yamazakiの目につかないだけで、事業毎の金額や規模は、高等教育ほど大きくないだろうが、上記と同じ問題は起きてきているであろう。)

ーーー

 国税浪費は、今回の記事の主テーマでないのでこれ以上書かないとして、

 初等中等教育での学校崩壊・教員離脱の問題が解決しないと言うことは、

 やはり、科学技術庁を併合した程度の小手先の省庁連携では、(しかも文部省よりさらに歴史のない庁との併合では。)、人間関係が原因の学校崩壊や教員の戦線離脱には、文科省は対応できなかった、ということだ。

 結論としては、文科省には、法務省との連携、そしてこれまで以上に厚労省との連携、その上での、制度の改革が、求められる、と考えます。

ーーー

 国会議員の方々様は、ご参考にして下さりますよう、よろしくお願い申し上げます。

«  「ある時点を定めた、一人っ子政策」の導入検討の必要性について | トップページ |  独法行革に関する、所轄省庁の副大臣・政務官の責任の取らせ方について。 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

«  「ある時点を定めた、一人っ子政策」の導入検討の必要性について | トップページ |  独法行革に関する、所轄省庁の副大臣・政務官の責任の取らせ方について。 »