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 個体の優劣・遺伝子の優劣について。

 遺伝子の優劣、個体の優劣というものは、やはり存在すると思う。

 生物学を学べば、やはりそれは事実としてのFACTである。

 人間とサルも、タイムスパンが何百万年と長いだけで、元々祖先は同じだったことを踏まえると、同じ人類同士でも、遺伝子格差は存在する。 

 そして人間は高等生物なので、個体としても、受精卵からの発生時・出生後の成長時に、体力・知力での格差は存在する。

ーーー
 事実がわかった上で、どうするか、は科学論文で言う考察の範疇になる。

 一般的に、優秀な人は、自由主義を望み、劣等な人は、社会主義を望むとされる。

 なぜなら、一般論として、自由競争であるほど、優秀な人は得をし、社会規制が強いほど、劣等な人は得をするからである。

 だから、結局、どいつもこいつも、自分が得をしたいと言っているだけで、自由主義が正しいか社会主義が正しいかには、正解はない。
 
ーーー
 ただ、人類の進化の流れで言えば、適者生存・弱肉強食を基本にしつつ、知能・高度脳を使って生態系を支配してきたのだから、

 本質的には、自由主義の基礎の上に、社会主義が成り立っていく、というものなのだろう。

 冷戦構造のように、2つがゼロサムで、対立・非共存するという考え方自体に、問題があると思う。
 
ーーー
 格差論が、派遣村などでブームになったが、「格差」があるのは、生物学的に当たり前なのだから、意味がないと思う。

 ただ、人間とサルほどの体力知力の格差は、健常者内の優秀人と劣等人間では、まだ開いていず、相互に攻撃でき損耗しうる立場にあるので、どこかで調整しなければならない。

ーーー
 弱者がでかい面できるようになる社会とは、ある程度、人類社会に余裕のある社会である。

 余裕がなければ、それこそ弱肉強食・適者生存の自由主義社会の基本に戻らなければならないからである。

 ある意味、左派の民主党が政権を取り、長年右派政権の元で虐げられていた弱者層が偉ぶるようになったのは、

 短期的過去には、バブルの崩壊や経済危機により、弱者層が増えた故もあるが、

 長期的過去には、高度成長・バブル期の自民党政権下で、それだけの弱者層を抱えていられるほどの、余裕のある社会になっていたことが、原因である。

ーーー
 遺伝的流れと個体的流れで言えば、
 大まかには、遺伝子としての家系ストリームとして、

 優秀な遺伝子から、優秀な遺伝子への、子孫への流れになる。
 劣等な遺伝子から、劣等な遺伝子への、子孫への流れになる。

 ただ、個体発生としては、高等生物の発生の、困難複雑さ故、
 比率は低いとはいえ、鷹が鳶を産む、鳶が鷹を産むことも、ある。

 そのため、優秀な遺伝子の家系に、劣等な個体が発生することも、ありうる。
 一方で、劣等な遺伝子の家系に、優秀な個体が発生することも、ありうる。

ーーー
 世襲制が、
 一市民の肉屋や八百屋ならともかく、
 高度な個体能力・個体同士の社会能力が求められる、執政君主や首相・大臣だと、
 短期的な世代間ではうまくいっても、いずれ長期的な家系でいきづまるのは、
 この遺伝的不確実さがあるところにもよる。

 個体の発生リスク以外の遺伝的流れでも、
 同時代の社会内で、勝者の家系は、楽に生きられるので努力しなくなり、敗者の家系は、苦労して努力するので、

 結果としての長期的な遺伝で、過去の勝者・敗者の子孫同士の能力が逆転し、後の同時代の社会環境で、逆転現象が生じることもある。

 (例;関ヶ原後の、毛利家島津家と家臣の家系、徳川家と旗本の家系 など)
    平安末期の、武家の源平家の家系と、貴族の藤原家・摂関家の家系、など。)

ーーー
 ただ、これらのことも、関ヶ原後では、同じ武家同士の勝者敗者、平安末期では、同じ天皇縁戚同士での勝者敗者の差であり、
 武家と貧農被差別民、天皇縁戚と庶民蝦夷隼人の差、ではない。
 
 つまり、あまりに遺伝子の格差が開きすぎると、
 個体発生での遺伝子の優劣や、同時代内の社会的要因による、個体の努力の差による、遺伝子の流れの優劣逆転よりも、
 系統的な流れとしての遺伝子の優劣の波の格差が、圧倒して、容易に逆転はしない、ということである。
 
 これは、500万年かけて作られた、人間とチンパンジーの格差が、
 少なくとも500万年、人間が堕落して怠けてチンパンジーになろうとし、チンパンジーが努力し続け人間になろうとしない限り、
 追いつかれないのと、同じである。

ーーー
 古代中世は、なんだかんだいって余裕のない社会だから、弱者の遺伝子は、かなりの程度で、淘汰されてきた。

 だから、貴族は、
 ごくまれにおこる個体発生の優劣による政変や、社会環境の差による努力の差による、数100年単位の優劣逆転による、政権交代をのぞけば、
 比較的、優秀な遺伝子を維持しやすかった。
 
 一方で、個体や系統として、政変や政権交代で覆される様な、弱い個体や遺伝子も、政変や政権交代が起こるまでは、勝者の余裕故に、残すことが可能であった。

 一方で、弱者の、農民被差別民や庶民異民族は、平安時代や江戸時代の、過酷な貴族武家の搾取の中、弱い遺伝子は、次々に淘汰され、
 集団間での強い遺伝子しか残すことはできなかった。

 つまり、農民被差別民や庶民異民族は、弱い個体は、遺伝子の流れとして続くことはなく、個体発生の段階から、淘汰されていった。

ーーー
 上記のような流れにより、古代中世は、生きる人達には、特に貴族武家以外の非支配階級には、個体として生きるだけでも、たいへんきつい競争の時代だったが、

 数10年単位の、時々の権力者内の政変、数百年単位の、権力者と周辺豪族との政権交代を経ることで、

 支配階級・非支配階級共に、優秀な遺伝子のみが残ることになる、優生学的な社会を作ってきた。

ーーー
 明治維新と戦後の合衆国支配を経た社会は、
 明治維新では、イギリスやドイツの立憲君主制と産業革命、
 合衆国支配では、フランス革命やアメリカ独立戦争での民主主義と、自由経済、
 これらの要素が、日本社会に入ってきた。
 
 短期間の数百年に、社会は大きく変わったわけだが、
 インテリ青年を教祖とする一神教のキリスト教の影響、
 産業革命の基礎となった、ルネサンスや科学主義の影響、
 そして理想に先走ったフランス革命やアメリカ独立の影響、

 これらの結果、
 プラスマイナス、両面の影響が、日本社会に起きている。

 プラスの点では言うまでもなく、
 国民国家が統一され、過去の政争の勝敗による、封建的な身分制度がなくなった。
 産業革命により、科学技術の恩恵を受けられるようになった。
 様々な、政治参加・経済活動・社会保障など、高度な社会制度の恩恵を受けられるようになった。
 
ーーー
 一方で、問題点は多くあり、

 まずひとつが、「自由・平等・博愛」という、名目上の理想や、達成し得ないができる限りで獲得しよう努力しようという目標としては、立派だが、
 現実的には、「無秩序・嘘・不可能」である、キーワードが、
 フランス革命の影響で、日本社会に入っていることである。

 自由は本人にとってはいい。しかし、人間関係で行きすぎると、他人にとっては迷惑になり得る。
 平等は、生物学の遺伝子や発生の事実からも、嘘である。

 利害や相性が合わない人間が出てくるのが社会なのに、博愛など、できるわけがない。

ーーー
 知的社会や産業革命により、化石燃料を工業でがんがん消費し、大地の栄養分を農業でがんがん消費し、
 古代や中世に比べ、貴族武家だけでなく、庶民も、食べ物や生活にそうは困らない、豊かな社会になった。

 豊かで、動物としての衣食住の過酷な生存競争に、過度にあくせくしなくてよいから、
 人間として、勉強や商売のような、知的なゲーム競争や、知的な余暇活動に、平安貴族や徳川旗本のように、遊びながらあぐらをかいてこれた。

ーーー
 しかし、豊かな社会を維持し続けるには、土壌であれ化石燃料であれ、資源が必要なのに、今の消費量では、枯渇は時間の問題である。

 しかも、豊かだからといって、弱者の遺伝子を、個体ではもちろん、遺伝子としての流れまで(つまり生殖として)、
 「福祉」という、実態のない、きれいに見える「造語」や、「人権」という、人の「欲望」でしかない言葉をキーワードに、
 無制限野放図に、野放しにしてきた。

 だから、人口はがんがん増えてしまい、しかも、本来淘汰されているはずの、弱者の割合も、増えてしまった。

ーーー
 これが、今の日本が抱える、もしかしたら、先進国全体が抱える、問題である。
 先進国社会自体が、「平安貴族」「徳川旗本」化しているのである。

 バブル経済期に、さんざん知的な勉強商業のゲーム競争や、ジュリアナ東京で遊んできた、今の中高年は、
 さんざん個人として、高度成長期を人生楽しんで謳歌し、
 せっかく戦争で減った人口を、戦前の反省を、人口問題の点という、本質面でしないで、
 戦前と同じ、「産めよ増やせよ。産む権利だ。」で、無計画に人口を増やしてきた。
 
 そのくせ、今になって、老後の介護が心配だから、「若い世代は子供をたくさん作れ、少子化はいけないんだ。」と、資源の枯渇や地球環境の将来も考えないで、自分の心配ばかりをする。
 
ーーー
 「子供の養育」と「老人の介護」は、壮年層の大人にとって、負担という点では同じだが、前者は、「将来への個体的・遺伝的な投資」になり、後者は、「ただの労役」でしかないという点で、徹底的に「違う」。

 「老人の介護」は、社会的には、知能的には、たしかに誰でも老人になる、いずれ逆の立場になるのだから、あまりに極端にむげなことはできない。

 しかし、だからといって、生物学の本質、適者生存と弱肉強食の点では、無制限に無条件に充実させなければならない「使命」でも「正義」でもなく、あくまで本質は、「お目こぼし」でしかない。
 
ーーー
 介護介護と言っても、たしかに、一定の規模では、雇用産業になり得るし、一定の範囲で社会義務になり得てもいいだろうし、

 人生トータルで見た損得勘定でも、壮年層には、一定の範囲なら、後々を考えると、平均的に得になるかもしれない。
 
 しかし、レーガン大統領でもない人の老後の介護に、専属看護婦やヘルパーは必要ないし、
 ある程度緩い形の、合衆国の日系人収容所のような、ある程度集約した施設に、老人ホームがなるのは、仕方ないことである。

 アウシュビッツやソ連の収容所でない分、ありがたい話である。

ーーー
 在宅介護は、ある程度の訪問頻度の範囲では、できうるかもしれないが、やはりヘルパーに介護保険料や税負担を払っている壮年層の立場を考えると、

 あまりに高度な負担での頻繁介護を必要とする人は、やはり壮年層の税金を使って高額な自宅介護を受けるよりも、集約した施設に入って下さい、となる。
 
 その代わり、集約した施設で、過度な人権侵害や、挙げ句の果てにはビニール手袋を老人に食わせるヘルパーがいないようにします、と、

 集約介護施設自体の、制度改善や人事改善を、政治指導層や壮年層は、する必要がある。

 その分、介護を受ける人も、本来、餓死してのたれ死んでいるはずの人が、自然界ならカラスにつつかれているはずの人が、
 まだ安全に生かせてもらっているだけ、ありがたいという、謙虚な気持ち、感謝の気持ちを、もってもらわないと、本当に困る。

ーーー
 「少子化」「介護」、たしかに、目先の自分の老後だけを考えれば、今の中高年や、もしかしたら壮年の若者にも、関係あることだが、
 「人口圧迫」「資源の枯渇」これを考えてないで、言っているのでは、あまりに短絡的だ。

 ネズミ算的に、10人の老人、その子どもの100人の壮年、その子どもの1000人の若者。

 これが介護社会の理想だろうが、こんな社会が、いずれ人口爆発と、環境破壊と、資源の枯渇で、ハイチみたいに崩壊するのは、目に見えている。

ーーー
 私が協力隊で見た途上国の社会も、
 標高2000M近くの痩せた高原で、内戦が終わった、先進国の援助が入ったからといって、村人が、栄養つけてがんがん元気になって、がんがんセックスして、人口がどんどん増えて、

 ただでさえ生産性が低いトウモロコシ畑が足りなくなって、後先考えずに、森林を切り始めて、いずれ土砂が流れて元の農地までダメになるのに、

 人権社会、非強権社会だから、森林監督官も、法律では違法だが、村人の復讐が怖くて何もできずに、見て見ぬふりをしている、そういう社会だった。

 内政不干渉をたてに、先進国からの干渉を拒絶し続け、中での人口爆発を続ければ、やがて中米もハイチの二の舞になるのは、目に見えている。

 中で飢餓地獄だけやっているなら、彼らの勝手だが、

 絶対に外国、特に先進国に、泣きついてくるか、先進国が援助しないと、にっちもさっちもいかなくなって、戦争をふっかけてくるに決まっている。

 どっちにしろ、先進国には負担で、迷惑な話である。

ーーー
 
 遺伝子の話に戻すと、
 やはり優劣がある中、「平等」という、虚構を信じる、信じさせるのは、危険である。

 「平等」という嘘を信じているが故に、かえって劣等な人が、嘘がわかったときに、生理的に傷つく、そういう事例もある。

 人口圧迫は、ひとつの人類の危機だが、
 逆の見方で言えば、劣等な遺伝子を、淘汰していく正当性を持たせるチャンスである。

 なぜなら、もし地球が今の10倍の面積があるより大きな球体だったら、まだ人口許容量に余裕があるから、
 民主主義体制で、強者の子孫だけでなく、弱者の子孫も、共に残すことが可能になる。

 しかし、それをやると、強者の子孫も、平安中期までの平安貴族、江戸中期までの旗本のように、強者の遺伝子の流れの中で、劣等な個体や、劣化する流れの遺伝子を残し、

 弱者も、高度成長期やバブル経済期のように、ただでさえ弱者の遺伝子の中、その中での、平凡や、挙げ句の果てには、劣等な個体、劣化する流れの遺伝子を、残してしまう。

ーーー 
 結局、行き着くところは、ガンジス川が流れて豊かだからできるであろう、優秀も劣等も、分化しながら共存する、インドのようなカースト社会である。
 
 それとて、今のインドのように、いずれは支配種の人間による人口圧迫に、資源が耐えられず、困窮することになる。

 昔のインドの場合は、近年まで、虎や伝染病のような天敵がいたから、まだ人口圧迫に制限がかかっていたが、

 虎が駆除され、伝染病が隔離されたら、結局、人口圧迫になり、どこかで淘汰しなければならなくなる。

ーーー
 結局、劣等遺伝子や劣等個体は、いずれにせよ、遅かれ早かれ、淘汰しなければならないのだ。
 
 サルと人間ほどの遺伝格差・個体格差ではないのだから、動物園で見世物にするようなことは、必要でもないし現実的でない。
 
 ただ、これだけ地球全体の人口圧迫が強くなった現代では、やはり一定以上の弱者には、子孫を残すことを禁じるのは、必要なのではないか?

ーーー
 例えば、6ヶ月以上の生活保護受給者には、個体としての生存のための、福祉手当は与えても、

 万一妊娠したりさせたら、警察と医者による、ハード政策としての強制中絶か出生後赤子の安楽死が、必要なのではないか?

 もちろん、心理カウンセリングと、環境についての講習会の、ソフト政策もしてやっての上で。

 もちろん、母体には、妊娠期間中の生活保護費と、全ての出産母に課した保険による見舞金を払ってやる。
 もちろん、そうなった場合には、父体にも、罰としてパイプカット手術を強制する。
 
 3回も、上記のような事を繰りかえす母体、父体には、野球も3回でアウトだから、不妊手術・断種手術を、強制すべきではないか?

 他人のお目こぼしと税負担で、飯を食って、のたれ死なず刑務所にも入らず、自由な社会で生きている人には、
 それくらいの、社会義務は、当然ではないか。

 
 1年とか2年以上生活保護を受けたら、すでにいる子供への、親権を剥奪して、子供は公共機関が育て、

 子供が成人後に、子供から生物学的な親に会いたいときは、会ってもいいが、親から面会を希望して子供が拒否するときは会わせない、

 子供が希望すれば、半径何キロ内の町に住んではいけない。

 これも必要なのではないか。

ーーー
 一定以上の重度の障害者も同じで、健常者の税負担の福祉手当を受け取った以上は、
少なくとも、上記並みの、1代限り政策は、必要ではないか?

 自分の生き方は自由主義で勝手に生き、他人には社会主義の助け合いを強要する、
こういう詐欺師な、弱者が、増えている気がする。

 そう言う奴らは、自由主義と社会主義が対立相反するという、間違った世の中の認識につけ込み、それを利用し、

 両方の間のコウモリのような立場で、「ずる」をしている。

ーーー
 これだけ、人類の数が増え、人口圧迫が強まり、資源は少なくなり、また、知的社会になり、武器も発達して、殺傷能力や戦死リスクが強まれば、

 否が応でも、基本の自由主義をベースにした、必要な点で社会主義的な社会に、移行せざるを得ない。

 サルに近いほど、本能に近いほど、自由主義、人間に近いほど、知能が高いほど、社会主義になるのは、事実である。

 しかし、社会主義は、決して、
「ずる」をするような弱者が得をするためのものではなく、

 強者から弱者まで含めた、社会全体の利益を、強弱の程度に応じて、「不公平」や「不公正」がないように、調整するものでなければならない。
  

 その際に、「公平」「公正」と、「平等」は違うこと、「平等」は嘘であることを、事実として、FACTとして、人類は、受け入れなければならない。 
 

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