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 女性について、体力については緩和する分、容姿を障害基準に含める必要について。

平成25年9月11日午前9時44分
Kensuke Yamazaki

 オリンピックで思うのだが、
 女性の競技の価値を、考え直す必要は、あるのではないか?

 体力で言えば、平均すれば、女性が男性に劣るのは、当たり前。

 フィギュアスケート・新体操・シンクロは、芸術点があるので、こちらは、むしろ女性向け。
 これら3種目での男性の演技は、フィギュアの最高峰でなければ、男性客には評価されない。
 男性の新体操やシンクロなどは、同性愛者以外には、男性客には、気味が悪く、醜悪なだけである。

ーーー
 哺乳類は、男性が個体としての強さ、女性が次世代の生産、で分業している生物である。
 
 先進国では、平和が続いて、知恵比べが主流の社会になっても、
 この本質は、女性が閉経までは、エネルギーを次世代の生産に取られてしまうのだから、変わらない。

 女性が、
 普通の女性なら1子、優秀な女性なら2子産むまでは、
 子供を産むのに適齢な、10代末~30代初期のエネルギーを、
 胎盤と子宮と卵子に最大限まわすのではなくて、
 必要以上の闘争での、筋力骨格と脳作業に使う必要が、
 本当にあるのだろうか?

ーーー
 女子サッカーがなぜもてはやされるのか、私には分からない。
 興味が無いので、ほとんど見ない。男性サッカーに比べ、のろまで弱いのは、目に見えている。

 女子サッカーでの成績など、
 単に、一流の男性サッカー選手が、できる範囲で子供に能力を引き継がせたいと考えた時、
 女性の容姿知性に付随して、男性が配偶者を選ぶ参考資料の「ひとつ」にしか、ならないのでは、ないか?
 それも、美人か少なくとも平均以上で、かつ女子サッカー高成績ならともかく、 女子サッカー高成績だが美人でない、なら、
 一流男性サッカー選手には、繁殖相手としては、相手にもされないだろう。

ーーー
 女子柔道の重量級など、もはや、生物学はともかく、景観的芸術的には、女性とはいえない。

 元銅メダリストの重量級柔道監督(男性)が、元金メダリストの重量級元選手(女性)と結婚して、
 女子指導で暴言暴力のトラブルを起こした理由に、
 個人としての柔道の強さと、柔道に強い子孫を作る目的以外では、容姿で評価されないような女性と結婚してしまって、
 細かいことは詮索しなくても、家庭では不幸な男性の、反動としての職場での暴走だろうと、
 想像する人も、ある程度はいるのである。

ーーー
 陸上や水泳で、女子が高成績を挙げたからといって、
 どのみち男性上位陣より低成績なのだから、本当に価値があるのだろうか?

 記録を残すこと自体は、否定しない。
 配偶者選択での、参考資料の「ひとつ」としての価値は、確かにある。

 しかし、先にも述べたが、
 余裕の範囲で、趣味として楽しくやりながら、素質が高能力の人は自然に記録が出る、
 女子は、その程度で、いいのではないか?

 女性が、過当競争の中、地獄の体力猛特訓をして競技競争に狂って、
 出産適齢期を逃す、または、優秀な人にもかかわらず出産数を1人で終わる、
 それで40代になって、見苦しい婚活に励みだす。

 それでも、競技で高成績の女性は、その分野の優秀遺伝子を欲しがる男性に選ばれるだろうが、
 挙句の果てに、高齢出産で障害児を産んで、その不良品を、意地でも育てると発狂する。
 そして、競技高成績の実績を使って、反社会的な、公共にたかるロビー活動をする。
 
 これって、本末転倒ですよね。

 知力の世界では、こういうタイプの女性達は、すでにいて、
 詐欺師(競争成功者)や狂信者(競争失敗者)としての活動を、しているのです。

ーーー
 容姿や知性で女性としての価値が低いのに、
 体力競技で高成績のような、矛盾する女性は、
 女性としてのご自身の価値を、何か勘違いして、
 世の男性相手に、「はっきり申し上げて非常に迷惑で負担、論外」な、ストーカー行為を繰り返す、
 その危険性すら、ある。

ーーー
 はっきり申し上げて、
 10代から30代終わりまでの女性が、評価される基準としての、
 容姿や美貌を、
 社会は、もっと尊重すべきである。

 狂信フランス革命の影響で、
 「人は生まれながらにして平等」などという狂信を信仰する人達が、社会的高位に就く、
 そういうまちがった社会だからこそ、
 共感を旗印に、悪平等を強要するような、やくざやきちがいの女が出てくる。

 そういう共感平等「やくざ」や「きちがい」の女を母親に持つ娘や息子などは、そもそもから間違った家庭教育を受けるのだから、最悪である。

ーーー
 若い女性が、
 胎盤子宮卵子に膨大なエネルギーをとられ、毎月産卵する生理の中で、
 唯一、その繁殖機能を妨げないで競争できる分野であるのが、
 容姿や美貌などの、芸術点である。

 体力が極端に無いのは不良品だが、平均前後あれば、
 どのみちエネルギーの使い先は、若い頃は繁殖機能と養育機能なのだから、
 女性が極端に体力が高い必要、女性が個体体力を競争して伸ばす必要は、さほどないのではないか?

 知能は、極端に無いのはこれも不良品だが、平均前後あれば、
 理論数学の演算処理と所要時間の能力など、「基礎科学の中の基礎科学」の特殊な例外を除けば、
 どのみち、知能は、同じ人間や同程度の能力の人間での、20代と40代では、経験値により、40代のほうがはるかに上である。

 20代30代には、よほど早熟天才の例外を除けば、同世代相手はともかく、世代を超えた知能の高さは、さほどは期待されない。
 そもそも、選挙権を、20代30代に、40代50代と対等な票数で与えていることも、個人能力格差との矛盾と同じ理由で、問題である。

ーーー
 20代30代の女性の価値を競う祭典があってもいいが、
 それは、体力過当競争としての、オリンピックよりは、
 体力や知力での、平均以下への足きり査定はあってもいいが、
 やはり、容姿や美貌を競い合う、コンテストなのではないか?

 容姿や美貌に恵まれない女性は、
 軽度の醜悪度の女性は、
 それでも、20代30代は、できる範囲で、容姿や美貌で、少しでも平均に近づけるよう、努力はしなければならない。

ーーー
 それでもあまりに能力がない重度の醜悪度だと、どんなに容姿競争をがんばっても、努力した分がかえって骨折り損になるだけだろう。
 (私は、狂信的で無理な奇跡理想を煽って、人をだます趣味は無い。)

 そういうかなり醜悪な女性になると、容姿でやることがないので、
 無理に体力過当競争や、若い頃からの知恵比べに、反社会的に、走りがちになる。

 しかし、そういう重度醜悪女性達が、
 同性間で、自身たちの私的グループでの共同出資金の範囲で、体力にしろ知力にしろ、ゲーム競技をするのは勝手だが、
 他の属性の女性や男性全体に資金をたかることは、反社会行為になるので、許されないし、社会は、それを許してはならない。

 そういう重度醜悪女性達は、
 体力があっても、女として生まれたことを神に呪いつつ、向精神薬と任意の刑務所留置と合法動物虐待のうち、どれかを選んで、人間相手にはおとなしくしている必要がある。

 女性の平均以上の体力については、
 社会の中で必要とされていない能力を、生物として確率的に避けられない遺伝ミスで、運悪く、間違って過剰に持ってしまっただけのことに、気づく必要がある。もちろん、出産経験をする必要は、全く無い。

ーーー

 もしそういう重度醜悪女性に知恵がある場合には、
 20代30代は、
 同性間のつきあいや、
 裏方業務での、ひとつふたつ世代上の上司への「書面での」意見具申で、評価される程度で、
 満足させなければ、ならない。

 それまでは、必要に応じて、向精神薬や刑務所任意留置や合法動物虐待で、己の運命への恨みのストレスを晴らしながら、
 人口過半数が容姿が衰えて、自他共に容姿に寛容になる、40代以降の世界が来るまで、
 おとなしく待たせるしか、ないのではないだろうか?

 もちろん、人生で出産経験をする必要は、全く無い。

ーーー
 もちろん、これらは、現在いる世代に関しての、
 やむを得ざる、応急処置の対応であって、
 
 女性に関しては、容姿を、体力はそれほど厳しく見ない引き換えに、障害者かどうかの判断基準にして、
 胎児や赤子幼児の段階から、
 容姿が基準に達しない胎児や赤子は、
 容赦なく「無慈悲に」、
 公安と医療による、中絶・小学校入学までの強制安楽死の対象にする必要がある。

ーーー
 容姿の醜い女性、
 はっきり申し上げて、非常に迷惑で負担です。
 論外です。

 キリストが、容姿の醜い女性を自信過剰でつけあがらせるような、説法を説いたなら、
 はっきり申し上げて、キリストは「やくざ」か「きちがい」です。
 
 世界最古の先駆者なら、「やくざ」や「きちがい」が許されるわけでは、ありません。

 はっきり申し上げて、非常に迷惑で負担です。
 論外です。

ーーー
 私は、
 人類が、狂信リスクと引き換えに、何度も失敗しながら、試行錯誤で築きあげてきた、「福祉保険」の概念自体について、
 社会全体の余裕の範囲での、最低限の生存と個人一代の一定の生活に関しては、否定するつもりは無い。

 しかし、物事には、「程度」と言うものがあるのです。
 福祉保険は、気をつけないと、保険詐欺や保険狂信の温床に、なりやすいのです。

 新世代に、より厳しい選別基準での、中絶と幼児期までの安楽死を求めるのは、
 福祉保険の前提となる、社会全体の余裕を維持するためです。

 世界中の人口が環境への危機水準に達しつつある中で、社会全体の余裕の維持のためには、非常事態でのやむをえない処置と考えます。

 

 

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